何事もうち忘れたりひたすらに
武の島さしてこぐが楽しき

                摩文仁賢和

糸東流々祖 
摩文仁賢和武歴

 

明治廿二年(1889年)

於・沖縄県那覇市首里、賢宝の次男として生まる。
戦国の雄将鬼大城(オーグスク)十七代目の孫也。

明治卅六年(1903年)

首里手の糸州安恒(1830〜1914)に師事。

明治四十一年

那覇手の東恩納寛量(1852〜1914)に師事。

大正五年(1916年)

首里で道場開設、廿七歳。
以後、琉球武術の殆どを渉猟しつくす。

大正十年

久邇宮、華頂宮の御前演武。
秩父宮、高松宮の御前演武。

大正十五年(1926年)

大日本武徳会講師、卅七歳。

昭和二年

講道館柔道、嘉納治五郎師範に空手術披露

昭和四年(1929年)

本土進出、四十歳。剛柔流を称え、大阪市西成区鶴見橋で道場
開設、関西空手術研究会を創立。

昭和十年(1935年)

両恩師の両伝合法、糸東流創始、四十六歳。

昭和十七年(1942年)

日本空手道会創立、旭区生江道場開設。
(昭和二十年、廣川弘 十九歳、入門)

昭和廿二年(1947年)

養秀館創設。
(昭和廿三年、糸東流拳龍会創設)

昭和廿七年(1952年)
五月廿三日入寂、六十三歳。拳龍会葬。

 

強弱を論じて仕合すべからず、
たがいに恥を求むると知れ。


先師摩文仁賢和は少時より琉球相撲を愛し
武友、甲賀流忍法14世藤田西湖より
南蛮殺倒流の柔術を修めておられたが
後年、更に合気道をはじめとする日本武道全般の
研究にいたり、私が館を訪れると待っていたとばかりに
その対手をさせられた。
「空手の中に合気、円容の理を活かしたい」   
          〈廣川 弘「柔法の組織(凛学別紙)」より〉