気功教室のお誘い


気功と武術 

平成三年(1991)秋・ 凛道宗師 廣川 弘

 世紀末を迎え、世界のあらゆる宗教、科学が提唱する破局と絶望のデータを前に、 今、心ある人々はかつてない不安を増大させている。
戦争、暴力、環境破壊、 人間性の荒廃と健康の破綻・・・。そして今 ようやく、自然のやすらぎを問う東洋の英知が見直され、「気功」の流行もみたが、これとても玉石混交、好ましくない幻覚の効用や「やらせ」をまじえて、全く無用の低レベル気功が 大手を振っているのも事実である。
 さて、気功とは、中国を中心に、武術や医療の世界で盛んに行われた「気」の「養」と「用」をなす、各種の技術の総称であり、新語である。
我が国に於いても、明治維新に至るまで当時の東洋医学の中心をなしたもので、これが日本武道にも大きく影響していた。
 特に士道の誇り、生と死の間(はざま)にあって、一剣必殺の極限のプレッシャーに耐え、なお自己のエネルギーを最大限に発揮せんとするには、その根源に於ける心身の安定と気力の充実 は最大の要事であった。
    “正気無きは、士に非ざる也”
 今日に残る伝統的な武道の形、各流各派の兵法家伝書にすべて明らかである。
 ならば、その「気」とは何か。

 ひと口に言って「気」はそれを、そのものたらしめているもの、といえよう。

この言葉は難しい。未知の存在である「気」は、知性よりもまず感性でとらえられる対象である。
 活人には活人の、死人には死人の「気」があり、春には春の、冬には冬の、その「気」がある。
 だから「気」には「正気」もあれば「雑気」も「邪気」もあり、武道でいう「気」は当然、心と身を高い次元で統合し得る「気」、さらに自由に使いこなすことの可能な「正気」である。

 凛塾を訪れた人の殆どが、その日のうちにこの「気」を体感する。
「気」という別次元のエネルギーは、自分で体感するしか無い。
その体感のプロセスが、そのまま
心を変えていく「行」であり、宇宙に体を開くプロセスである。


 かつて優れた武人が探究した兵法に、この「気」を融合媒体とする心・技・体一致の 「勢」があった。
これを練功の手立てからみると、一つは形にあらわれて勝をとる「表」の技の用と、いま一つは
形にあらわれず内面にあって勝をとる「裏」の気の養である。
そしてこの表と裏の兵法の完成につれて、その中心をなしたものに「周天法」がある。
「周天法」とは、身と心の重心を映し乍ら、人体を流体としてとらえ円転、渦旋の動きの中で、 筋肉の伸縮と
、呼吸による体腔圧の変動を両々相まって活用し、からだの中の気の流れを完全に 自然に従わしめるものである。
凛塾で修する「円容の拳」は、まさにこれが「表」の行動則であるが、これに干合する「裏」の 兵法にも、更に真気を練る「周天法」 が存在し、ごく一部の兵法者の間で行ぜられ、これが彼等の 入神の「勢」を生んだ。

 しかし乍ら、ここでも気を扱うは両刃の剣であった。
このことは特に銘記されたい。
「気」は所謂生体エネルギーであり、又、人間のバイタリィを表現し、 形成する。
 
その修行の法を間違えると、容易に入魔して、 走火、 幻覚、幻聴に迷わされ又その善用、 悪用 の判断を誤ると大変な危険がともなう。
 
よって固く秘伝とされ、門外不出の功として、極めて少数の高弟にのみの口訣伝承が護られたのである。
 しかし、よくよく考えてみたい。
今日のこの混迷の世相で、今、急速に個人のバイタリティを奪われている現代人にとって、この 入神の「勢」こそ、さらにも必要な行ではなかろうか。
 一人でも多くこの方法を自得して欲しい。
その為には何よりも安全にと、永年の試行をくり返した。
そしてもっと容易に、もっと自然に、一切の秘密主義を排し、なお新知識を加えてこの法を公開する。

    (中略)

 人間の生命力の強弱とは、如何に自然の流れに乗るかどうかである。
 その為にはどうしても、自我がつくり出した「くせ」と云う不純物、不自然さを取り去り、この透明な心身にして、はじめて浮かび上がる「真の自己=気」との出会いをなし、その潜在能力を引き出すことである。
 周天法の淵源は遠く仙道に発する。
 この世界に於ける文化的英雄は、皆老人であった。すべて真に価値あるものには、年を経て更に輝く、その「滅び支度」がある。
 武の修行もこれと帰一する。
 我々の先達、優れた武人は、死の直前まで遂に自在性を失わず、頭脳力、気力、精力ともに若者を凌いだ。
 これは作られた物語りではない、事実である。


生きることは選ぶことである。