廣川先生の思いで1969-1980 (昭和44年から昭和55年)
                                         凛塾塾長・入江宏和

●出会い  
「(八尾の)定法寺の境内ですごいものを見てきた!!猫のような軽やかな足捌きで、舞のように華麗な動きがすごかった!!」
Y君の興奮した叫びが発端であった。
空手とはどんなものかの認識は何もなかった。
(Y君とは学生時代から演劇活動をしていた仲間で、ラグビーをやっていた彼の筋肉はカチカチで、しなやかな動きに魅了されたようだった)。 定法寺(隣保館)道場の練習は激しいもので、その筋の方々(ヤ)も避けて通ったと先輩から聞いた。
早速、入門した。(昭和44年)
道場の案内に「流祖摩文仁賢和の遺徳を顕彰することを目的とする」と書いてあったのが大変気になった。
そして今思えばそれが廣川先生の生涯の目標であったのだ。
さて、道場は山本に移り、廣川先生のお弟子さん方(植山、真鍋、大東、新居師範)が指導しておられた。
山本球場に移った道場の近くにY君が借りた下宿に泊まって、鍛錬組み手で腫れ上がり変形した腕をさすり、涙ぐんでいたものである。
Y君は組み手が強かったが、それだけでは武道として納得できず、拳龍会の会長に直接会いに行こうということになった。
糸東流は会員が万を越える大勢力であり、その重鎮である偉い方だと聞いていたので、無謀に思われ、非常にビビッタのであるが、
讀賣テレビの管理室の鉄の扉を押すと、「おお新居君がきた!」と部長席を立って、手を差し伸べてくださった颯爽たる紳士が廣川先生であった (当時、42歳ぐらい)。  
この人違いが幸いしたのか(?)、天神橋商店街のひいきの店にご招待いただき(カウ ンター席にに並んで)、先代(摩文仁賢和先生)の人となり、糸東流の名門たる所以について長広舌をふるわれた 。先代の動きがどうしてもできず、空手だけでなく、その行住坐臥のすべてを真似されたと伺った。歩き方、火鉢の炭の埋け方、湯飲みの持ち方、髪型…・・
そして摩文仁先生は練習はさておき、火鉢を囲んでのお話が多かったそうで、様々な話題を通じて多方面から理解させるという方式も踏襲しておられた。
なかでも賢和先生の強さは「見視観察」よりさらにハイレベルの全てを見抜く「看」に達していたことを詳しくお話いただいた。
それまで空手の関係の本は大山倍達の「空手バカ一代」(心酔して千葉県の清澄山を詣でたこともある)位しか読んでいなかったので、ずいぶん次元の違う話に驚嘆した。
この時は廣川先生と長いおつきあいになるとは夢にも思わなかったので、この「見視観察」と「看」をだけを胸にあちこちで練習していた。山本の道場はあまりに遠く、往復6時間はかかるので近くの剛柔流(森田剛全師範)、白峰神社の松濤館流にも通っていた… 
(凛学「道を求めるのだ。三年修行するよりも、三年かかって良師を選べという。ただ家に近いとか、途中だとか、時間が合うからで師を選んではならない。」)
フランス留学中はずっと松濤館の道場に通ってはいたが、練習の仕方は日本からの先輩の指示に従っていた。
フランスの組織は整備され、教えるためには国家の免状が必要で、日本人は助手止まりであることも見えたし、練習のほとんどは体力増強であった。組み手や形で優勝したが、きちんと形を習っている人がいなかったのが本当のところである。
このころ、ブルース・リーの映画がヒットして、映画館から出るときは皆なりきっているのがおかしかった。
さて、帰国してみると空前の空手ブームで山本道場も狭い板敷きから、立派な武道場になり、芋の子を洗うような大盛況であったが、
廣川先生は大会のときひな壇に座って居られるのをお見かけするぐらいで、遠い存在であった。
一度「征遠鎮」の形を演舞されたが、それがその後の練習に生かされることはなく、「拝見させて」いただいただけであった。
廣川先生の形や技は特別なものとされていた。また廣川先生の方からもいくつかの体操を教えていただいただけで、それを繰り返すしかなかった。

●読売総合文化教室
讀賣テレビの地下室で、まず最初に教えていただいたのは「家の設計」であった。
西納先生の本を頂き、一応のことを勉強し、讀賣テレビの空手部では、図面を描いていたのである。
図面を見よう見まねで何枚も描いている内に、何となく家の見方が分かるように成ってきたのは不思議である。
家は時間軸上でも、空間上でも変化が大事なことが分かるようになった(3次元、4次元、さらには超次元的に変化する、こんな家の見方を教えてくださった方はほかになかった)。
同時に四柱推命、易学、印相、書、囲碁、音楽、電気・電子工学(点火プラグ改造、先生は雷族(走り屋)であった)、写真、ゴルフなどをご教示いただき(稽古はときにゴルフ大会、囲碁トーナメント、車のラリー、写真撮影会になった)
後に物事を理解するには多方面から攻めよ、ということが理解できるようになった。
反面、空手のことだけを習いたかった方々は付いていけなかったようだ。
このように多方面から教えていただいても、不肖の弟子達は理解が悪く、よく叱られた。
(珍問答:「もっと力を抜きなさい」―「力抜いたら立ってられません」、「もっと頭を使いなさい」−「頭突きですか?」) あきれられても仕方がなかった…
また伝統的な教え方は、十分に言語化されたおらず、例えば突きについては「そこ」とだけおっしゃった。
「そこ」と思ったときにはもう突いている、そこに思考の介在する余地はない。
「けり」についても相手の重心が見えるので、一度も蹴られたことはない、とおっしゃった。
時折外国の練習生が訪れると、natural, body action, tilt and turn といった。 凝縮された表現になり、そばで聞いているものが助かった。また先生の語学力は、細かいことは抜きにして、「相手の言いたいことが先にわかる」というまさに「看」のレベルのもので、後で通訳の勉強をした時にも大変参考になった。
転機は昭和49年であったろうか。
旅行会社に就職したY君が東京での研修期間の間に、どうしても身体を動かしたいので、武道館で太極拳を中国の婦人から習得してきて、 讀賣テレビの地下で披露した時のことである。そのとき眼鏡の奥の先生の目がキラリと光った。
そしてその日から陳家簡易太極拳を数ヶ月かけて全員が習い、中国拳法各派の研究が始まり、演舞会があると見学に行き、苦労してその動きを習得した …、ところが、習得後はそれを解体し、忘れる作業が始まり、練習生はまた目を白黒させた。
先生の目的は太極拳ではなく、その動き、流れの中に流祖 摩文仁賢和先生の動きを再現することであった。
今まで感覚的にしか教えていただけなかった先代の動きを系統的に「形」として完成されるヒントが得られたのだ、今度は先生が夢中になられた。トイレに立たれたかと思うと帰ってこられない、探しに行くと地下室の片隅で、ああでもない、こうでもないと、無心に動きを研究して居られるようなこともあった。
「円容拳」と名付けられたこの一連の動きは、固定したものではなく、日替わりであった。
みんな仕事どころ ではなくなり、夕方6時には讀賣テレビの地下室に集合すると(いつの間にかタレントのように顔パス)、
中村さんが酢を用意して待っておられ、これを飲みながら(先生が「酢を飲まないやつはバカだ」と仰るので)、
8時過ぎまで練習し、帰宅はいつも11時をすぎてしまった。
昼間も仕事どころではなく、(Y君の旅行社は隣であった)勤務先の事務所の机を片づけ、ああでもない、こうでもないとやっていると、西口君も営業に出ると称して、必ずやってきた。上司に叱られても、そんなことはもうどうでもよくなってしまった。
完全に狂っていたし、廣川先生も「狂え」とあおられるものだから…
そのうち植山師範まで「ちょっと教えてくれ」とやってこられたのには一同びっくりし、恐縮してしまった。
毎日のように形に修正、改良、訂正があるので、不満も出たが、先生は一つの動きを生み出すために、何十通りも、何百通りも工夫しておられるので、教える側の肉体的、精神的な疲労は相当なもので、まさに生命を削るような工夫鍛錬であったようだ。
夜遅くなるので、時々先生のお宅に泊めていただいた。また海外からの練習生が来ると通訳のため同伴した。
昔先生が薩摩守をやったという天王寺駅の駅ビルでステーキをごちそうになってから柏原市上市のご自宅におじゃますることが多かった。(当時先生は、まぶしい新婚で、今思えばよくも厚かましくもおじゃましたものである)。
一緒に風呂に入るときは、いつも隅に「含胸」の形で入るように言われた。
ローマの五輪大会で優勝した拳闘選手、カシアス・クレイを絶賛され(後の、モハメッド・アリ)、
あのように胸が90度曲がらないといけない言われた(先生はいつも拳闘と言っておられたがボクシングのことである)。
事実、先生の胸板は厚かったが、胸筋は見たこともない形で、ボディビルダーのようなデフィニションではなく、三角に切った餅の一辺を面取りしたような幾何であった。
亮冠などでは腹部の筋肉も嚥下するように使えといわれ、腹で突きを押さえられ、実に不思議であった。
また先生ご自身は酒は飲まれないのに、ビールも出していただき、朝ご飯には必ず納豆がでた。
仏壇の前で朝の勤行を終えてから会社に向かわれるときは、必ず奥様が鞄をもって従われ、もうあまり見かけなくなったこの光景がまぶしかった。
練習は、おそらく増築されたのであろう西向きの板の間で、とにかく暑い!!(ふすま一枚隔てて、娘さんが受験勉強をしておられたので、ずいぶんじゃまになったのでは)日頃お聞きしている家相学とは反しているのがおかしかった(また、裏庭には割れた瓦の山があり試割も研究して居られるのが見て取れた。)
練習の合間に座談になったが、一番驚いたのは、誰かがETのことを話題にした折、先生が宇宙人とのコンタクトの話をされ、インカ・マヤ文明の宇宙ロケットの写真を見せてくださり、該博な知識を披露されたときである。
映画「未知との遭遇」、や「竹取物語」にも関心を示され、武道とのつながりがわからないのでおたずねすると、「摩文仁先生はETであったとしか 言いようがない」と答えられた・・
武道関係の稀覯本も見せていただいたが、線を引いたり、書き込みが一杯であった。
「どれでも借りて行きなさい」といわれたが、すでに誰かが借り放しにして歯抜け状態になった書架からさらに抜き取る勇気はなかった。
このとき、宗教や倫理と武道との違いについて重要なご教示を受けたが、そのことも深く胸に刻まれている。

●守破離
さて、讀賣テレビ空手クラブの練習が中心になるほど(先代 摩文仁賢和先生のイメージに近づくほど)糸東流宗家とは疎遠になり、
拳龍会との練習との食い違いが明らかになってきた。
宗家の養秀館や各地の拳龍会からも多数の方が見学にはこられるが本気になって修行する人は少なく、目先の成果ばかりを求めておられるようだった。
廣川先生は組織の問題には本当に心を痛められ、「世の中で最大の罪悪はバカだ!!」とよく憤慨されてた。
バカとは「本物の価値が見抜けないこと」という意味であろう。したがって、かって 糸東流の正統をまもる裏糸東として拳龍会が誕生したように、
どうしても別の組織を創生して一暴れする必要があるとおっしゃったので、
「京都には八坂神社があって、素戔嗚尊 がまつられています、嵐の神 素戔嗚男は気性も荒く、暴れ者ですが、八岐の大蛇を知恵と勇気で退治し、大蛇の尾から取り出した草薙の剣を天照大神に献上していますから。『素戔嗚男』はいかがでしょう」
と申し上げたところ、それはおもしろいと膝を打たれ、昭和50年の暮れに「素戔嗚男門」が創設された。
その趣意書と戒律を記載しておく
: 今ここに集う 
素戔嗚男門こそ  
糸東流空手道の正統を護り  
流祖の錬功に自らの道を求めて  
真正武道家の誇りを   
後世に問わんとする者達である   
 昭和五十一年一月吉日
  廣川弘 (拳龍会会長)

戒律
一.我が門の目的は 拳の正道を護るにあり この志なくして当門に入るを許さず
一、天の声は拳の心也 深く神仏を敬い 読経 怠るべからず
一、拳の修行は位相勢の発現にあり 邪気を去り   陽気になれ、かくて品性 自ら深し  

素戔嗚男門に入門を許された者は「高士」の称号を受け、また別働隊として「叢雲隊」(むらくもたい)も創設された。
がしかし … 糸東流という組織の枠内での活動に限界を感じられた廣川先生はついに守破離の「離」の段階を迎えられ、
既存のどの組織にも属なさい「凛塾」を昭和51年に創設されたが、このときの設立趣意書などは下記の事情で海外に赴き手元にはないのが残念である …

●「もしかしたら 帰らぬ者」にどのように接するべきか
先生の勤め先では当然人事異動があり、退職者がでるのだが、いつも小宴をもよおし、自分は飲まずに、皆の与太話や愚痴を聞いておられた(時々、例のごとくジャブをとばしてからかいながら)、そして二度と会うことがないかもしれない人との「別れをきれいに」と教えられた。
そして、順番が回ってきた…
暑い夏になると思い出されるのは比叡山坂本の還木神社に参拝したことである。
当時(昭和52年)糸東流拳龍会からは南米に派遣されるものが多かったが、廣川先生は石油ショック後の世界情勢を見極めて、
(世間が緊縮に走る中、廣川先生は「電気はどんどん使え!」、「アラブからタンカーいっぱい石油を持ってこい!」とおっしゃった、 常人の考え及ばざる発想である)
アラブ諸国との親交を深める戦略をいろいろと立てられたので、西口君と眠い目をこすって、アラビア語の夜学に通い始めた。
当時は辞書もなく、エジプト人の先生の板書も書き取れず、本当に苦しい勉強であったが、胸には壮大な夢があり、わくわくしていた。
そしてついにホシン君のサムライ拳龍会、バナト君のアルジェリア拳龍会に派遣されることになり、比叡山で壮行合宿を催していただき、還木神社に参拝した(坂本には特攻隊の基地があり、その生き残りの方も一緒に参拝し、お礼参りをされた)。
そのさい廣川先生は気宇壮大なプロジェクトについて願文を述べられた(S君であればその内容を記憶しておられたであろうに)。
残念ながらその文言は忘れてしまったが、その荘厳さは今でも身が引き締まる思いがするある。
そして護身のため「般若心経」を唱えなさいと手を取っておっしゃった。
それまでずっとキリスト教を勉強していたので 先生の数々の「抹香臭い、また占い師のような所業」には批判的だったのがこのとき「抵抗勢力」は失せてしまった。
廣川先生は、人生の節目の儀式を大切にされた、そして別れのときには必ず小宴をもよおされ、(自分は飲まず)みんなの与太話に何時間でもつきあっておられた 「別れをきれいに」、これも先生から身を以て教えられたことである。  
  当時、積水化学工業にある海外プロジェクトが持ち上がり、海外派遣希望者が募集されたので渡りに船と応募した。このときの試験官はかっての海軍士官で何千人も人を使ってきた経験があり、廣川先生と同じようにするどく「体癖や性格」を見抜かれ、おそれいってしまった。
しかし偏屈な性格がこの任地に適していると思われたのか、合格してしまった。  
厳格なイスラムの国での思い出は語り出せば一冊の本になるくらいである。
最近まで、あまりにもかけ離れた日本の方々に理解してもらうのは無理とあきらめていたが、9月11日のWTCへのテロ事件以来、アフガニスタンをはじめとするイスラム社会についてはあらゆる報道がなされ、情報が提供されたので、想像していただけると思う。
またアルジェリアの国土の大半はサハラ砂漠なので、都市部でも気温が50度に達することがあり、山地では突然零下になり、予備知識も、準備もないまま、よく生き延びられたと思うほどである。
現地の練習生も、真っ暗な夜道を何時間も歩いて道場にたどり着くなど、戦後の日本にも似た、想像を絶する状況であった(「ラマダン月」についてはもうみなさんご存じであろう)。
しかし、畳の上の世界、心情は、共通するものがあり、娯楽が全くといってほどないので、町に1枚張り紙を出すだけで、何百人も練習生が集まった。とはいえ、大勢が相手では、体操以上のことは教えられたなかったのも事実である。
また「試合」を申し込むと称して、挑戦するものも多かったが、この辺のところの機微は習っていたので、武道については有意義な毎日で、現地の友人もたくさんできて、結婚式、割礼式など伝統的な祭式にもよく招かれ、空手のおかげでお金では買えない貴重な体験をさせていただいた。
このころは積水化学の国際事業部嘱託として生活は確保されていたが、累計約60名のプロジェクト要員は業務と生活面で筆舌に尽くせぬ苦労を強いられた上、多数の犠牲者がでてしまった。
とくに昭和55年10月10日次の任地であったエルアスナムで地震が発生し、同僚4人が倒壊したホテルの下敷きになった。  
勤務後毎日のアフターファイブと週末は空手に明け暮れ、弟子と友人に囲まれ楽しく過ごしていたのだが、毎日の読経の際に胸騒ぎを覚え、不思議な経緯でこのとき帰国し、代わりの人員を選考してエルアスナムに派遣した直後の地震のニュースであった。
(信じていただけないかもしれないが、その前夜地震のイメージが浮かんだのである、そのことは周りの人にも話し、とがめられた)。
このとき廣川先生のいわれた「般若心経」の不思議な力を思い知らされた。
悪運の強いことに感謝しつつ、亡くなった方々のご冥福を改めてお祈り申し上げたい。  
その後、現地を訪れた方の報告によれば、工場は「最新型の機械が、間違って接続され、誰かが勝手にいじり、きちんとした指導をする人もいないし、指導は受けようとしない」ということである。  
この工場の様子はそのまま現地の練習生の現状だと思われる。
25年前は、何も情報がないので怖いもの知らずで平気だったが、今となっては、渡航者待避勧告の出るような国に行くのは二の足を踏んでしまう。
そして現地の人たちに何の手助けもできずにいることが今も心に重くのしかかっている。
 廣川先生は「男は生きた証を、爪痕を残せ」とおっしゃったが、このアルジェリア派遣は人生の深い深い爪痕となった。
と同時に、青春の一ページが閉じられた気もした…

 帰国後、廣川先生ご支援の元に「京都凛塾の会」をはりきって創設したが、なにぶんアフリカぼけで、とんちんかんなことばかりで、路頭に迷った。
とくにビラ1枚で何百人も集まるアフリカとは異なり、日本ではチラシ1000枚で一人読んでくれるかどうかもわからない。
気楽な娯楽はいくらでもある。反応はほとんどなかった。
西口君が一緒にビラ配りをしてくれ、電話番をしてくれた、その心情の優しさには胸を打たれた。
またその後凛塾本体の活動は休止し、眠っているように見えたが、ある日、廣川先生から招集がかかった…
技術的には矢山先生の「気功バンド」を発端に、「気功」が取り入れられ、動きは「円」から「球」へと進化し新たな発展完成の時期を迎えることになるが、それを担うのはもはや廣川先生が「不肖の弟子」と嘆かれた暴れん坊の素戔嗚男ではなく、品性正しいもっと若い世代、そしてとくに女性であった。  
 この時期の廣川先生の思いでについてはその方々に筆を譲りたい。
「生き甲斐とは、幸福とは、歴史的に永遠の価値とつながること」(凛宗)
使命を得ることによって生きる価値を見いだすことを教えたくださった生涯の恩師、廣川先生に感謝し、あらためてご冥福を祈ります                            
                                              平成12年12月9日 入江宏和

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