*編集部注・・・ このレポートは1982年頃「今、何故、円容拳か?」という題で入江師範が作成された原稿が元になっています。
2003年の合宿で復刻配布する際、21年の時を経たレポートのままでは表現が現代に合わない部分もあり、
原文をほぼそのままで一部、小嶋参段が現代風にリメイクした後に合宿で配布された
「今だから・・・ 凛道のススメ」を、改題して掲載しています。
「凛道のススメ」
世の中が組織化され工業化が進んでいく。だが、その一方で現在ほど肉体の意味が問い直されている時はない。
頭ばかりを使い、身体全体の営みが忘れられている。教育や宗教、医療もそれを回復しようと努めている。
武道は古来から肉体を通じての表現を専門にしてきた。
しかも精神や観念、肉体をバラバラに扱わず、人間全体としての、高度に統一して表現する技法を蓄積し、「道」と名づけた。
複雑な精神と肉体の葛藤に悩む現代人に、武道は大きな光明をもたらす。
「道」は口舌の及ぶところではなく各自が精神訓練により到達し、冷暖自知すべき世界である。
ではまず、正しさと強さについて考え直してみる。
各種の体操・スポーツ、健康法と称するものには誤解も多く、肉体と精神を分離してトータルな人間像をゆがめている。
第一の誤りは、筋肉の増強により力を獲得しようとすることだ。
スポーツの世界では、パワーを増すことにより記録を伸ばそうとする。
君は引退したアスリートの哀れな老後を聞いたことがあるだろうか?
凛道ではそれを良しとしない。
老若男女のあらゆる人を対象にし、一生を通じて判断するからだ。
そのままの体格でいい(決してパワーを否定しているのではない。
ただ、力を出すには肉体と精神をリラックスさせることが必要である)。
なぜリラックスすることが必要なのだろうか?
力を出すのに筋肉を緊張させなければ(あるいは<力>をいれなければ)ならないと思い込んでいるのではないか?
一歩進むのに何十の筋肉を順次緊張させていたら、身体が硬直して動けなくなるだろう。
進もうと思う<気>さえあれば良い。誰が歩くときに一つ一つ考えているだろうか。
もう全てがプログラミングされているので、自然な流れに逆らわなければOKなのだ。
ここでもう一度まとめてみよう。
@最高度の筋肉の働きを生み出すために、なるべく筋肉は休んでいる方が良い。
意識も予想外の事態に対応するため、休んで待機している方が良い。
*参考・・・全身の筋肉をトータルに動かそうとする時ほどリラックスした方が良い。
この時の脳波はシーター波になるのが理想→禅
A凛動の動きは練習によりプログラミングされ、無条件反射(脊髄反射)となっている。
動きの修得は主にイメージによる。運動神経を情意で調整できるのは横隔膜(呼吸)である。
呼吸は肉体と精神状態を、瞬時に一変させるほど強力である。
(多くの酸素を取り入れる事が肉体にとって必須である。もちろん、それにとどまらない。精神も一変する)
初心のうちに重心(丹田)と呼吸法を正しく学んでおくこと!
呼吸が乱れ喘ぎながら動くようでは、上達が望めないばかりか身体に害が出る。
同時に「推手」「合気練習」を通じて<負ける事>を学んでもらいたい。
<受けは不完全に!>これは逆転の発想である。
日本建築における柔構造はワザと負けつぶれる部分を造ることにより、地震などの衝撃があっても建物を維持できるのだ。
機械工学や電子技術においても、この発想は取り入れられて大きな成果を挙げている。
凛道の発想はゴリ押しではない。<柔軟さ>にこそ飛躍がある。決して強度を高めれば良いものではない。
そろそろここで、パワーに頼る今までの考え方を変えてみてはいかがだろうか。
「リラックスすること、負けること(不完全に受ける)」
この事を学んだだけで発想が一変して、日常生活にも変化が表れる。
単なる知識ではなく訓練により体得した、潜在意識にプログラミングされたものだけが自然な行動となる。
日本の武士道精神についての類書は多くあるが、意外にも武士道と武道の区別は明確にされていない。
元来、「兵法」の技術は研ぎ澄まされた合理性を持ち、心血を注ぐような辛苦の結実したものであり、情緒的なものが介在する余地すらなかった。
武道はあくまでも<技術>から出発する。それゆえに「道」といえるのではないだろうか。
この道の中には、仏教・ヨーガや中国的思想が深く根ざしているが、ここでは「中国五術」の面に注目する。
五術とは「命・ト・相・医・山(めい・ぼく・そう・い・ざん)」である。
これは法律や倫理以前の根底において生きることを宿命づけられた人間が、欲望や本能に立脚して生き抜く智慧を集大成したもので、
人間の生理と心理を究明した術である。
この五術は、凛道のカリキュラムにおいて主要となる<凛学>のメインを占めている。五術を簡単に説明してみよう。
「命」・・・人間の宿命を推定する(推命)→ 紫薇斗数、子平推命、星平会海
「ト」・・・事項の余地と処置(東洋的占術)→ 六壬神課、奇門遁甲、太乙神数、選吉、測局、断易
「相」・・・物体の姿と影響の究明(金面玉掌)→ 名相、印相、家相、墓相
「医」・・・東洋的医学(肉体)→ 方剤、鍼灸、整体、按摩
「山」・・・人間の向上発展を究明→ 玄典・・・老子、荘子
養生・・・築基、裁接、食餌
修密・・・空手、符呪
以上、五術はお互いに関連している。
つまり「命」により人間の宿命を明らかにし、「ト」は時間や方位を変数にして事態を予測し、
「相」により人間及び関係する事物の姿を正し、「医」は東洋的治療・保健を担当し、「山」により心身を強化する。
達人が精緻な推命法を用いると、驚異的な的中率を示すという。
「宿命」が<命がけ>ぐらいで変えられるものではなく、「開運法」などによってもうごかされないと知らされた時に、我々は慄然とさせられる。
仏教ではこれを「業(カルマ)」と呼び、現代では遺伝子に組み込まれた情報とされ、
また電波望遠鏡の発達により様々の「実星」「虚星」からの宇宙線が地球上まで達し、
それが遺伝子に変移を起こすとも説明されている。
生まれた時の星辰の影響はいまだに解明されていない。
ただし、こういう達人は滅多にいないし、いたとしても真実を伝えてくれるかは疑わしい。
推命術そのものも故意に、または誤ってゆがめられ伝わっている。「ト」「相」についても全く同じ事である。
従って科学的な知性を持つ人が巷の<占い>を信じないのは理解できる。
とはいえ、これらの技法を頭から否定し拒否するのも非科学的である。
人間を時間と場所で変数とした関数による考え方は、昔も今も極めて妥当である。
「命・相・医」を究明したい人は、信頼できる技法と師を求めて比較し、疑い、少なくとも万を超える事例を集めて検討し、
自分の工夫を加えて一生のテーマとして研究しなければならない。だが残念ながら徒労に終わることが多いようだ。
<物事を瞬時に看破するインスピレーション>が必要だからだ
しかし動かぬ「宿命」を明らかにして何の役に立つのか。
真理を認識した喜びではなく、生身の人間としてのあなたの精神は、その宿命に耐えられるだろうか?
「オエディープス王」を始めとして、宿命をテーマにした文学作品は数限り無い。この点は自問自答してほしい。
「医」は東洋医学である。針麻酔などが非常に注目されており、類書も多く出版されているので参考にしてほしい。
ここでも中国の哲学「五行」を肉体現象に配当し、その相生、相剋関係が究明されている。
「山」・・・我々の修行は主に山である。なぜなら山こそが宿命ではなく運命を語っているからである。
命を運ぶ根本は性格の改変であり、それは正しい精神に則っていかなければならない。
即ち「玄典」であり、老荘思想による精神の強化充実である。
現代人もそれぞれ依るところに従い正思惟を確立しなければ、卓越した技法も「魔」となり「邪」に墜してしまう。
さらに天地人の三法(座法、呼吸、食餌法)により心身を強化して改造する。
呼吸法も小周天、大周天(陰陽循環ー大周天放)から真息法まで気功を練る段階がある。
中国の神仙術には吐納導引と呼ばれるものがあるが、武術を学ぶ上では吐くことに重きをおけばいい。
真息法も実は呼吸をしない状態といわれる(胎息)。
次の地丹(食餌法)でも、何を食べないのか(悪食を避ける)、何も取らずに出す(断食)、この二点が眼目である。
<呼吸>といっても、そっくり返って吸い込み、栄養ばかり採っているから邪気が充満する。
まず全てを吐き出すことから生じたアンバランス(ポテンシャル)によってこそ大きな流れが生じるのである。
それが自然界の法則であり経済や文化の法則である。
根力之拳(三戦、転掌)で、このポテンシャルの差を<勢>として放つことを学ぶのである。
地丹の基本には正食があり節制がある。武道を学ぶ者が酒・タバコを慎むのは常識だろう。
「特に煙に巻く」「煙幕を張る」とか言うように、心理面でも煙草は自他を欺く気持ちを助長するので気をつけた方がいい。
最後の修密には符呪と空手が含まれる。
日本の山岳宗教修験道や成仏陀教の一門密教には身を守り、他を救済するための力を得る法がある。
回峰行、滝行や護摩などを耳にされたこともあると思う。ただ、こうした行法は型を学んでマネただけでは何の力も発しない。
同じように空手の形だけをマネても、それはダンスでしかない。
日本武道だけでも数多くあるが、最近は中国拳法やテコンドーなども盛んである。
いずれを学んでも面白味はあるが、大切なポイントは<法>に則した力を発揮するために人智を越えた力とパイプを直結しなければならない事。
仏教ではこれを感応といい、キリスト教やイスラム教では神秘という。
またこの力と直結するための心を「般若」という。
わが凛塾では本格的な修行を始める初段を許すにあたり、般若心経を課すのは以上の理由であり、
それまでの有と無の対立に悩んでいた心を行の「空」へ止揚しなければならない。
如意之拳の<止揚>で矛盾を高次元において解決し機を見る眼(見視観察看)と漲る力を放つ法を学んでいかなければならない。
まさに<千日を練習を錬とし、万日を以って磨>としなければならない。
先に各種の武術や健康法にも効用があると述べた。しかし不十分である。
単なる健康法や精神修養では人間の全存在をカバーすることはできない。
西洋思想の二元化した心身を別々にみても人間は捉えられない。
同様に五術により「宿命」だけを知っていても毛すらも動かせない。
<生き方>そのものをも含めた人間全体を捉える眼が必要である。
「修行」「行」というと特別なものと考えがちだが、<行い>とはすなわち「行住座臥」つまり日常生活である。
武術も日常生活から切り離してはならない。
生き方そのものを律していくのが武道である。また学ぶうちに生き方が変わっていくのである。
以上、五術をもって説明したことはトータルな観察と究明の一例に過ぎない。
各自が自己の気魂と縁によって信念を確立し、技を学び法を体得すれば良い。
ただ現代において、思想も科学も宗教も混迷し、明確な指針を有するものが少ない。なぜだろうか?
それは歴史的にも社会的にも、また人間の性癖も不純物の存在を許してしまったからである。
1つの法を伝えることは、写瓶相承といって大変困難なことである。
本当のところ、一生のうち弟子一人に正確に伝えられたら大成功なのである。
そこに夾雑物を許せばどうなるか?
昭和56年1月に誕生した我々のグループは、凛道宗師の故・廣川弘師範(糸東流空手八段、糸東流拳龍会会長)により「凛塾」と命名された。
凛とは凍てつくような寒気である。秋冷または凛洌という。ばい菌の生存できない清洌、純粋な世界である。
真正武道を継承して、流祖の遺徳を顕彰せんとする集団である。正統を標榜する者は昨日今日生まれたものではない。
伝統には歴史に則した血脈がある。この貴重な古典の深き流れに汲むものは、決して渇くことがない。
糸東流空手の開祖・摩文仁賢和先生は琉球貴族の名門の出であり、最初に王族の師範であった首里手の大家・糸洲安恒先生(糸洲流)に師事。
武道が帝王学たる所以が首肯される。次いで那覇手の大家・東恩納寛量先生(剛柔流)に師事、両師範の名を取り糸東流空手を創始する。
この<法>と<心>の全ては廣川弘師範に写瓶された。
廣川師範は糸東流の宝庫から秘術を厳選し、あらゆる検討を加え「凛道(凛塾空手道)」を発表、それを護持宣布する凛塾を創設された。
2000年8月に廣川師範が故人となられた後も、残された凛塾の塾生により秘術は伝承されている。
〜 完 〜